桜鏡
午睡の桜
息を吐く。吸う。吐く……。
次第に掌が温かくなる。手は、柔らかくよく動く。指先の隅々まで、血管と神経が張り巡らせていく事の不思議。
どんな精緻な機械にも真似出来ない、繊細で正確な動きを、ほんの少し「思う」だけで、現実化出来るという事に少年は脅威すら感じる。
本当に、何故、日頃は気づかずにいられたのだろうか。
自分が命を持っているからこそ、与えられている自由ということに。
今、この桜の大樹によりかかり、幹に背中を寄りかからせているこの時、時間がゆっくりと過ぎ去っていくことを、合わせた指先の鼓動で感じた。
しどけなく満開の時期を過ぎた、舞い散る桜花の陰り、少年は黒い幹にもたれかかり、左右の五本の指先を、それぞれにぴったりと合わせている。
その合わせた指先の先にまで、血の通っている感じ--鼓動が刻まれる感覚が、なんとも言えずに気に入っていた。
目を閉じて、息を大きく吐く。胸が上下する、肺が膨らんでしぼむ感覚。心臓が鼓動を刻む感覚。
普段なら、全く意識せず、すっかり忘れている五体の感覚が戻ってくる。
まるで、桜の大樹が、呼吸を助けてくれるかのように。
少年は、自分が窮屈な高校の制服を着ている事に気がついた。
と、言うよりも--。
自分が着ている、黒いブレザーの制服が、意外にも、窮屈であることに、今、気がついた。
目を開けば、陽光に透ける白雲のような桜波。白くどこまでも続いていく、雲の海のような花雲を縫うようにして、光が差し込んできている。
空気は、やや暖かい。
少年は、黒のブレザーを脱ぎ捨てて、赤いネクタイを緩めた。
脚を伸ばす。
楽な姿勢で膝を伸ばし、また曲げて、少年は指先と指先の間の微熱を感じ、緩やかな呼吸で肺が動くのを感じ取っていた。
麗らかな日射し。
青空に舞う雲雀。
その鳴く声が、より一層、静けさを際立たせる。
目の前に、雪よりも緩やかに踊るような風情で、花が滑り落ちていく。雪ならば黒い地面に落ちれば消えるが、花は消えない。桜の花弁は、芝生の上に一つ一つ落ちていき、淡い緑を桃色がかった白に埋めていった。
煙り渡る花霞、見渡す限りの、花の雲。
白雲の切れ間に見える、陽の光と空の青。
柔らかに皮膚にまとわりつく、春の空気。
それら全てを、少年は、本当に久々に心ゆくまで感じ取り、己の生きているという実感を取り戻していった。
忙しない日々、どれだけ自分が疲れ切っていたかに、初めて気がついた。
いつもそうだ--中学、もしかしたら、小学校の時からそうだったのかもしれない。数ヶ月に一度、学校の午後の授業を抜け出して、この公園の桜の大樹に寄りかかる、わずかな時間だけ、少年は本当に自由を感じる事が出来る。
大樹の直径は軽く一メートル以上、少年の両腕に抱えきれないほどで、その太くしっかりとした幹に体を預けていると、すぐに眠気が落ちてくるような、安心感があった。
少年は、白い雲の波のような桜の花の下、大樹に抱かれるような姿勢で、また目を閉じた。
目を閉じると、いよいよ感覚が研ぎ澄まされる……。
第一ボタンを外したシャツの下で、鎖骨が動いている事が自分にもわかる。
呼吸を一つ繰り返すために、体内の血管の中を、酸素が巡っていくイメージ。
自然公園の外の空気は、樹木の匂いを含み、みるみるうちに少年の体内に鮮やかな生命力を取り戻させた。頭の先からつま先まで、全身を血液が循環している事が、はっきりと自覚される。
そのまま呼吸を繰り返す。深く、浅く、浅く、深く。
--そうしているうちに、体が温かくなっていき、筋肉のこわばりや緊張が、完全にほどけていった。
柔らかに温かい光、風。
それを受けながら、少年--影は、ごく自然のうちに、大樹にもたれかかりながら心地よい眠りに落ちていった。
短い黒髪の上に、ふわりと、桜の花弁が舞い落ちる。
黒のブレザーの上に、スラックスの上に……ふわふわと舞い落ちる桜の花。
影という名前の通り、彼の髪の毛も、長い睫も色が濃く黒く、夜の暗闇を思わせた。
日焼けしていて肌の色は浅黒く、健康的な印象を与える。鼻筋は通っており、唇は薄い。整った形の眉。
美しい、と思うかどうかは人によるだろうが、多くの人間に、決して悪い印象を与えない、清潔で精悍な印象を与える顔立ちだった。それでいて、どこか、危なっかしいぐらいにあどけない。
それは彼が、無防備な眠りに落ちているからだろうか。眠っている彼の顔は、こちらも眠気が誘われるぐらい、気持ちよさそうで、優しげで、健康的だった。
そのとき、強い風が吹きすぎ、桜の花がしどけなく、雨のように彼へと降り注いだ。
大樹にもたれかかっていた彼は、花びらの中に埋もれるような姿勢で、次第にずるずると根元の方に寝転がっていった。
黒髪の上を滑り落ちる桜の白。
安らぎに満ちた優しい眠りと、花びらとともに埋もれていく影。
影、と書いて、ヨウと読む。
吾田影。
それが、彼の、現世での名前だった。現世が彼にとって、眠る事すら過酷な毎日だとしても、影は、自分の名前が好きだった。他の者とは違う、自分だけのたった一つの名前。
誰がつけて、誰がどんな意味を持たせたのだとしても、影は、自分の名前を自分だけのものにするために、張り詰めた糸のような毎日を、たわめないように途切れさせないように、生きてきたのだった。
それは、生まれた時から。
ずっと、生まれた時から。
●
白刃が閃く。
漆黒の闇の中、瞬く合間に白い光の軌跡を残し、刃は暗闇に消えていく。
しかし鋭い一撃は終わらない。
二撃、三撃--追撃の刃を、影は、すんでのところで身をかわし、必死に自らも打ち刀をふるった。
暗闇の中。
どこから飛んでくるかわからない刃。
その直刀は、脇差しと打ち刀の中間の長さ--成人男性が最も携帯しやすい長さとされる。そのほかにも、侍の持つ刀と違って様々な、現実的な工夫が凝らされているそれは、忍び刀。忍者刀だ。
影は、その忍び刀に追われて、その巨大な庭の桜の木のところまで追い詰められていた。
影は、運動神経は決して悪くない。
だが、真剣の使い方など、学校で教わった事があるわけではない。
わずかに、体育の時間に、剣道をしたこことはあるものの、部活が剣道部だったわけでもなく、そういう戦闘スキルを特別持っていた訳ではなかった。
その彼が、何故、縦横無尽に忍び刀を使いこなす相手と、まともに渡り合えているのか。
それは当然、相手が手抜きをしているからだ--それぐらいはわかる。
相手は遊んでいるのだろう。影が、真剣の持ち方もろくにわからないこと、ましてやこの暗闇の中で、視界もろくに聞かず、ただ直感だけで逃げ回り、忍び刀に応戦しているということを、楽しんでいるとしか思えない。
どうしてこんなことになってしまったのか……。
そんな考えが脳裏をよぎるが、今、それを言っても仕方が無い。
影は、満開の桜の木の下、降りしきる花弁を鬱陶しく見上げた後、授業で習った通りに、正眼に打ち刀を構えた。
それぐらいの姿勢はわかる。
ただまっすぐに刀を構え、腰を落とすようにして、姿勢をただす。
「……」
忍び刀の主が、闇の中、何ごとか考えているのがわかった。
少なくとも、刃が降り注いでは来ないようだ。
相手が襲いかかってこないので、影は、呼吸を整えて、目をこらし、闇の中を見つめた。
月のない夜だった。垂れ込めた暗雲が夜空を覆っている。今にも、一雨来そうな風情。冷たい夜の雨は、この、桜の花雲を一夜のうちに蹴散らしてしまうだろうか……。
それほどに、桜の花は、枝を重そうにしならせるほどに、闇の中にも仄かに白く浮かび上がるように、咲き誇っていた。
花弁は、粉雪のようにひっきりなしに闇の中、夜風に吹かれて踊るように舞い散っていく。
その闇の中、いずこから襲撃してくるかわからない、忍び刀の呼吸を見透かすように、影は花びらの向こうをにらみ付ける。
視界が、きかないということが、これほどに不安と恐怖をさかなでることを、知らなかった。
どこから--。
どこから、刃が襲ってくるか?
そのための敵意。
それは、悪意とも殺意とも違う事は、影は感じ取っていた。
彼が生まれた時から、悪意と殺意はそこにあった。彼は、愛情よりも慣れ親しんだその感情を、別に何とも思わない。だが、敵意は別だ。
敵意は……。
自分が真の敵である限り、悪意よりもしつこく彼を攻撃するだろう。だが、敵でなくなれば、悪意も殺意も霧消する。
影に向けられているのは、純粋な敵意とは違う。影を追い回して遊んだのは純然たる悪意だろう。だが、その根底にあるのは敵意。
この闇の中、漆黒にそびえる館。そこにおいて、影は異質な存在である。異質、異形を追い払うための敵意だった。
出来るだけ平常心を保つために、息を整える。前を見る。全身の神経を研ぎ澄まし、見知らぬ打ち刀の切っ先を見つめる。
次の一撃--それがいずこから飛来するか。
それだけを考え、意識を集中する。
ほんのわずかな陰りも、闇の中ではわからないが--。
そのとき。
かそけき音が。
ほんのわずかな、地面を踏みしめる音が、前方から聞こえた。--ような気がした。
影の聴覚は、決して悪くはない。だが、超人レベルというわけではない。
自分でも自信はない。だが、動かずにはいられない。
影は、音が聞こえた方角から推測し、打ち刀を前方に、大きく振りかざしていた。
それが、直刀の刃を受け止めた。
金属がぶつかり合う、激しい音。澄んだ音--。
偶然だとしても、この機会を逃す訳にはいかない。咄嗟に、影は、直刀の主の方に全体重をかけて踏み込んでいった。
何が何でも、相手を倒さなくては。--敵を倒さなくては。
鍔迫り合い。
技術もいるが力のぶつかり合いが続く。
不意に。
柔らかな光があたりを照らした。
確認することも出来ないが、雲の切れ間から月光が差し込んでいるのだろう。
霞がかった空からこぼれ落ちる、清らかな光が--。
敵の顔を、照らし出した。
まず驚いたのはその美貌。続いて、--黒の刺繍を縫い取った黒い眼帯。
隻眼の、美しい男だった。まとっているのは、昔ながらの作務衣をアレンジしたような、和装。
息をのむ影の打ち刀が、吹っ飛ぶ。
一体、何をされたのか、わからない。訳がわからないうちに打ち刀は宙を飛んで、地面の上に落下していた。
呆気にとられた影は、咄嗟に、敵の男の方に殴りかかった。
太刀打ち出来るかどうかなど、わからない。相手が直刀を持っていたとしても、この至近距離なら--。
その直刀が翻り、見えなくなった。敵が、直刀を背中の鞘にしまい込んだのだ。
それとほぼ同時に、影の拳が敵の顔面をかすめていた。相手が美しかろうがそうでなかろうが関係ない、相手は、自分の命を狙う敵なのだ。
かわされた拳を引いて、もう反対の拳を固め、鋭く相手の腹を狙おうとした時。その両腕を、とらえられた。何がどうなっているかわからない。
わからないままに、影は、敵の男に抱きすくめられ、いきなり、唇を唇で吸われていた。
「!?」
唇をなぞる唇の次には、ねっとりとした舌の愛撫があった。呆然としているうちに、舌が歯列を割り、影の舌を舐めあげようとする。
息が苦しくなり、影は男の腕の中で暴れた。必死に、自由を取り戻そうと、無我夢中で手足を動かし、男の胸を突きのけようとする。
途端に--
男の固めた拳が、影のみぞおちにはまった。
影は忽ち、男の腕の中に気絶して倒れ込んだ。意識を失う瞬間、雲間の月が見えた。
暗黒の夜の月に映える満開の桜。その下の、美しい男……。
何かを本当に美しいと思った事が、影は生まれて初めてだったかもしれない。
読んでいただきありがとうございます。