桜鏡
その流れで、影は、百合につれられて一回の食堂に、夕飯を食べに行く事になった。百合は、新入りに対する親切のつもりなんだろう。このメレウトと呼ばれる館の間取りの話やら住民の噂話やら、「ここだけの話」やら、様々な事をひっきりなしに話してくれたが、影にしてみれば、デムパ話にしか聞こえない。
青ざめてひきつり笑いを浮かべながら、ただ無言で相づちを打つしかなかった。
その中でも生粋の電波話は、百合の日記の話だった。
百合が言うには、この迷いの森の隠れ家は、どこの時代にも属さないので、逆にどこの時代にも行けるのだという。その時代への時空のつながり方は完全にランダムで、古くは古代エジプトに接続した事もあるとか。
メレウトとは古代エジプト語なのだそうだ。
もっとも未来と言える位置が令和時代で、そこから先の未来に接続した事はない。
普段は、どこの未来とも過去ともつかぬ時空にメレウトは存在するとのこと。
その、地球上のいかなる時代からも孤立したメレウトの中にも、時間はひたむきに流れている。
それで、メレウトの中だけの時間と出来事を記録したのが百合で、それを「メレウト暦」というのだとか。
最初はメレウト暦と呼ばれる事はなかったが、百合が、大正時代からメレウトに転移してきたその日から、ずっと、その日記はつけられており、それが、彼らの時間と空間の基になっているのだそうだ。
「桜、まさか僕が、暦や時空を司る事になると思わなかったんだよー」
「時空……」
百合は恐らく蓮から、影の通称である桜について聞いていたらしい。
そんなことを言われても影にはどういう意味かわからないし、信用も出来ない。相手は精神的に病んでいるのかもしれないし、犯罪者なのかもしれないのだ。
影は百合の様子をうかがいながら、ただ相づちを打つしかない。少なくとも影にしてみれば、この愛想のいい書生も含めて、何らかの電波を浴び続けた犯罪者にしか見えない。
(あるいは、聞いた事がないけれど、何かの新興宗教でもやってるのか……? その方が辻褄が合うような……?)
影は、百合の優しげな面をそっと観察した。
赤茶色の肩下まで伸びた髪を後ろで一つに束ねている分厚い眼鏡の青年である。よくみると女性的とも言えるほどの色白で優しげな面立ち。書生風の和装をしているが、何か芝居がかっている訳でもなく、親しみやすそうな笑顔を常時浮かべている。背は高くもなければ低くもない。
一方の影も、令和の高校生としては標準体型で、近所の高校のブレザーの制服に身を包んでいる。自分では、できるだけ人になじみ、外見、外面だけでも摩擦が起きないようにしているつもりだった。そんなに周りと変わっている部分はないはずだ。
--それでも。
影は、気がついていなかった。彼は、誰にでも、何か強烈な印象を残すところがあった。
そのために起こった摩擦もあったし、彼だけの生きづらさもあった。
吾田影が、吾田影であるというだけのインパクト。
無論、本人は自分にそんなものがあるという事には気づいていないのだが。
そうこうしているうちに、巨大な洋館の食堂についた。食堂は、こじんまりしたレトロなレストランのようだった。
広さは八畳程度だろうか。昔風の重そうなテーブルと椅子が綺麗に並べられている。
その奥で、せっせと調理をしている様子の一人の男。
細身の背の高い彼は、正しく白皙といっていいような広い額を持ち、何故かやはり動きやすそうな和装で、肩に襷をかけながら鍋を菜箸でかき回していた。
艶やかなみどりの黒髪。
「瑠璃! 新入りだって。彼にも美味しいの、何か出してやって」
百合は、相変わらず人なつっこい笑顔でそう言った。瑠璃と呼ばれた青年は目を上げた。知性を感じさせる澄んだ瞳だった。
「新入り?」
瑠璃は、警戒心からか、冷たそうな無表情で影の方を見た。
「あ、彼--」
百合が桜のことを紹介しようとした。それよりも先に、黙っていた影が口を開いた。
「影です。俺は、吾田影」
相手が犯罪組織が新興宗教団体なのかもしれない。その不安はある。だからこそ、勝手に決められた名前を通用させるのは危険のような気がした。そのため、影は、自分の名前に固執した。
「……」
百合が息をのむ。瑠璃と呼ばれた青年も、いぶかしげな顔をした。気まずい数秒の後、瑠璃が言った。怒りさえ感じさせる声音だった。
「この屋敷で、本名を名乗るのは厳禁だ。犬死にしたくないのなら、Ladyに与えられた名を守れ」
名を名乗れではなく、名を守れと言われた……。
影は唖然としてしまう。自分の名前を名乗っては、本当にいけないのか。
「桜。彼の言う事を聞いた方がいいよ」
親切な口調で、百合が影の事を窘めた。