序章
憧れのクインドルガ攻略
五月。初夏の早朝。
東の空は朱色と黄金に輝いているが、西の空はまだ真っ暗である。だが、グラント公爵家令嬢、オリヴィアの起床時間は夜明けと同時であった。健全な農民を目指す彼女は、世間一般の貴族の令嬢たちよりも’遥かに早寝早起きなのである。
オリヴィア……通称リヴィは、天蓋付きの広々としたベッドの中で寝返りを打った。頭が重い。覚醒と同時に、頭の中が憂鬱なものでいっぱいになってくる。
目覚めがすっきりしていることもあるのだが、半々の確率で、リヴィの覚醒は、呪詛とともにあった。
呪詛と言うのはクインドルガ王国では質も量も種類も様々であったが、「悪口」「陰口」の類も一般には呪詛と思われている。
そして、ゲーム内では最悪の悪役令嬢であるリヴィは、学校に限らず様々な場所で悪口を言われたり、悪意を向けられたりすることが多い。そうした負の想念は、一種の呪いとなってリヴィにつきまとい、何かと彼女に不遇な想いを味わわせようとするのだ。
リヴィは目覚めと同時に、全世界から見放されたかのような様々な悪口を、頭いっぱいに鳴り響かされ、とっさに、寝返りを打ちながらマリアンナの聖句を唱えた。長めの聖句を二つか三つ、唱えて、身についたマリアンナの印を切る。
それだけで、頭の中の憂鬱な言葉は雲散霧消していったが、気分の重さは変わらなかった。気分の悪さをこらえて、リヴィは体を起こして、ベッドの枕元においていた、水晶のペンダントを首からかけた。
自分でもはっきりわかるぐらい、頭も気分も軽くなった。呪詛が跳ね返されたのだろう。
「んー…おはよ……今日も頑張ろう!」
さらに、ベッドの枕元においていた鏡を覗き込み、リヴィは自分に向かってそう言った。
水晶のお守りのペンダントも、磨き上げられた鏡も、リヴィが生まれた時にマリアンナ大聖堂から贈られたという本物の聖具だと、親から聞かされている。リヴィに向けられる悪意や悪夢は、これらの聖具が跳ね返し、防いでくれているのだ。それなのに、一年の半分は憂鬱な気持ちで目が覚める。それはメルこと従姉妹のアメリアもそうであるらしく、彼女も生まれた時から同じお守りのペンダントを持っているのだ。
(本当に憂鬱な呪詛。だけど、お守りとかを上手に使えば、ほとんど全部防げているんだし、感謝すべきよね。私はゲーム内の悪役令嬢なのに、今日まで、池で溺れかかったぐらいしか大事を起こさず生きてこられたんだから。メルがいうには、本番はこれからだという話だけど。なんにせよ、無事に高等部を卒業したいものだわ)
リヴィはそんなことを考えながら、寝室の隣の彼女専用の洗面所に行き、そこで身繕いを整えた。
黒い癖っ毛の長髪をとかしつけ、高い位置でツインテールに結い上げる。そうすると、天然でくるくると巻いている髪の毛が肩のあたりで揺れて、本当に巻き毛の悪役令嬢キャラのように見えるのだ。それは元々、母の好みなのだが、現在も、リヴィは農作業をする際に便利なのでそうしている。クインドルガ王国の貴族文化では、女性は長い髪の毛が常識であり、短く切るのは世俗を捨てて僧院に入る場合に限られていた。庶民は違うらしいが。
リヴィは僧院に入る予定もないし、クインドルガ王国誇る五代公爵家の長女として、非常識な格好はできない、だが、自分の農民という趣味は捨てられない、そうなると、折衷案で髪の毛を高い位置でしっかりと結ぶという方法を取る事になったのである。ポニーテールもいいが、彼女の場合はツインテールの方が頭の安定がいいようだった。
綺麗に髪の毛を結い上げて洗顔をすませると、美容クリームで肌を整える。畑いじりをするのにUVケアは基本である。
そうして間近で見てみると、リヴィは切れ長の紫色の瞳と、形のよい鼻、ぽってりとした色っぽい唇を持つ、確かに色気過多の悪役令嬢に見えた。背は高くもなければ低くもなく、標準体型だろうか。こういう役柄であるためか、この年にして、最大の悩みは肩こりである程度に、なで肩で胸は大きい。腰は締まっている。まず、安産型。そんな高校一年生が、鏡の中に映し出されていた。
動きやすい服に身繕いを整えると、時刻は朝の四時過ぎ。リヴィはこれから、朝の野良仕事で一汗流してくるところである。
それから三時間後。
リヴィは、シャワーを浴びて、畑仕事の作業着から、王立学院の制服に着替えていた。
クインドルガ王立学院の制服は、紺色に白い丸襟のロングワンピースである。胸元にネクタイ、左胸に校章。黒のハイソックスに、学校指定のローファーの靴。胸元のネクタイは、学年ごとに指定の色があり、リヴィとメルの学年は赤である。校章は、身分によって色合いが違い、五大公爵家の娘であるリヴィはプラチナの校章をつけていたが、男爵令嬢であるメルは銀の校章であった。
ワンピースは膝よりも少し長い丈で、寒い時期は学校指定の黒のジャケットか、カーディガンを着る事になっていた。
五月なのでもう暖かく、今は上着を着る必要はない。
装飾品についても、結構喧しいのだが、リヴィとメルは、お守りのペンダントについては、学校当局に許可を得ているので身につける事が出来る。何しろ貴族の子女が通う王立学院、護身用の装飾品は大目に見てくれるようだった。だが、護身用アイテムでも悪用すれば、厳しい処罰が与えられる事だろう。
リヴィはいつものように、服の中にお守りのペンダントを隠し、綺麗に身だしなみを整えると、一階にある家族の食堂に降りていった。
母のエルノラは既に、自分の席についており、リヴィを見るとにっこりと微笑んだ。
「おはよう、リヴィ。今朝も一働きしてきたの?」
「はい、お母様。おかげさまで作物の出来は順調です」
エルノラはそれを聞いて、ややがっかりした顔をしている。作物の出来がいいのはもちろん嬉しいのだが、この娘はいつになったら畑仕事の趣味をやめて、もっと公爵令嬢らしい嗜みを持つようになるのだろうか。だが、リヴィはおとなしいようで……というか、おとなしい娘によくある、一回、意地を張ったら徹底的に意志を貫くタイプであるため、母親であっても、止める事は出来なかったのであった。
リヴィは母が、自分の畑仕事の趣味について、困っている空気を感じ取ったが、やぶ蛇になるのを恐れて、すました顔で自分の席について、侍女達が皿などの準備をするのに任せた。
「おはようございます、母上。リヴィ」
そのとき、グラント公爵家の長男である、ブライアンが、父のジェームズと連れだって食堂に入ってきた。
何やら、朝から、親子で相談事でもあったのかもしれない。
ジェームズは、そろそろ、嫡男に自分の仕事を覚えさせ始めているのだ。リヴィほどの早起きではないにしろ、父の部屋で朝活してきたという事なのだろう。
「おはよう、ブライアン。今朝の調子はどう?」
「書類作業ばっかりです」
ブライアンは親しみをこめて軽口をきいた。
「だが、書類のミスは減ってきたぞ。ブライアン」
それに対して父のジェームズは励ますように言った。
「エルノラ、リヴィ、今日は私は城に登るが、お前達の予定はどうなっている?」
続いて、ジェームズは自分の上座につくとテキパキと家族達の確認をした。
ジェームズもブライアンも、リヴィと同じ黒髪に紫色の目である。
母のエルノラは、グラント一族の出ではないが、アーネスト伯爵家という、首都クエンティンではそれなりに名が通った貴族の出で、金髪碧眼であった。金髪碧眼は妹のユーニスも同じで、メルは赤毛の他に、明るい水色の目を持っている。
「私は、ハワード公爵家の奥様のお茶会に招かれていますの。午前中はそちらにうかがいますわ。午後からは、クエンティンの児童福祉についてのチャリティーの仕事がありますわ。一日出かける事になるかもしれません」
エルノラはそう言った。ハワード公爵家は、グラントと同じく五大公爵家の一角である。毎日毎日、チャリティーやらボランティアやら教育、福祉と忙しい身ではあるが、ハワード家の誘いとなれば、断るわけにもいかないのだろうとリヴィは想像した。それに実際、お人好しのエルノラは社交的な性質ともいえて、ハワードに限らず、他の貴族のつきあいでも人気はある方らしい。
ゲーム内で悪役令嬢をしているリヴィとは真逆である。
「リヴィは?」
ジェームズに聞かれて、リヴィは頷いた。
「私はいつも通り学校です。お父様」
「よろしい、ブライアンと一緒に、勉学にはしっかり励みなさい。この間の再テストの話は、私は悲しかったぞ」
「はい……」
「結果は100点だったんだからいいが、いきなりテスト中に寝こけて0点を取るとは何事だ。趣味に打ち込むのは仕方ないが、こういうことは二度としないように」
ジェームズは娘をそんなふうに言い含めた。
「はい。お父様。頑張ります」
リヴィは緊張の面持ちでそう答える。ジェームズは大体、それで満足したらしく、メイド長に朝食を運んでくるように伝えた。
7:00。
ブライアン・グラントとオリヴィア・グラントの登校の時間である。
食事を終えた兄妹は、両親に挨拶をして、玄関前まで回された馬車に乗り込み、クインドルガ王立学院を目指して登校する。
クインドルガ王国の首都クエンティンは、200万人近い人口を抱える、王国随一の都市である。クエンティンの南北にかけてゆるく蛇行しながらベルリスコム川という河川が流れており、クエンティンはこの巨大な川の交通を利用して発展してきた。ベルリスコム川は、クインドルガ王国よりも南にある隣国オーレリア王国からほぼまっすぐに、北方の海に流れ込んでおり、その両岸で栄えてきたクエンティンは、数百年前から、このアルテア半島の交通の要衝だったと歴史では教わっている。
ベルリスコム川の東西に都市は広がっているのだが、クエンティン城が西側にあるためか、貴族の邸宅やその使用人の住宅街は西側に、豪商や工人の住居は東側に固まる傾向があった。北西にあるクエンティン城の真南に、グラント公爵邸はあるのだが、そこから毎朝、南東に馬車を走らせて、ブライアンとリヴィは、アメリアのいる男爵家を訪れていた。
馬車を走らせて大体十五分程度。
ベルリスコム川にかなり近い、パーカー通りの方のグラント邸に着くと、門の前にはいつものように、メルが一人で立っていた。
川から吹いてくるのだろう、冷たい風の中で、メルは片手に本を持って立ち読みをしていたが、馬車の音に気がつくと顔を上げ、右手を大きくリヴィ達の方に振って見せた。
馬車はすぐに、メルの隣に停まった。
ドアが開くのとほぼ同時に、メルは慣れた仕草で車内に飛び乗ってきた。
「おはよう、メル」
「おはよう」
兄妹に声をかけられながら、メルは広い車内の自分の席……兄妹の向かい側に座ると、意志の強そうな顔に笑顔を浮かべた。
「おはよう、ブライアン兄さん、リヴィ」
リヴィはブライアンの事をお兄ちゃんと呼ぶが、メルの方は幼い頃からブライアン兄さんと呼ぶ癖がついていた。
「メル、何を読んでたの?」
「古文の単語集よ。雅語に興味はあるんだけど、昔の言葉はわからなくて。図書館で借りてきたの」
「そう? 面白い?」
「私は小説に使えそうだと思ったけど、リヴィが読んで面白いかはわからないわ」
メルは真顔でそう答え、リヴィに「クインドルガ古文における雅語」という、現代日本で言うなら文庫本程度のサイズの本を手渡した。リヴィは中身をパラパラとめくって読み、ほとんど、古代魔法の呪文のような長ったらしい文字の羅列に驚いた。
「メル、あんた、毎日こんなの読んでるの」
「こんなのとは何よ。頭の中から磨き上げるのは基本よ」
クインドルガの国語の古典についての単位は、王立学院の高等部にもある。だが、あくまで十代の高校生には、そこまでのレベルは求めていない。だが、メルは、「憧れのクインドルガ」のゲームをクリアした後は、自分がどこの世界でも悪役令嬢小説家として大成し、自分の理想の悪役令嬢を書き上げると言う壮大な夢がある。そこに妥協はないらしい。
「あ~、私も……」
そこで、リヴィは何事か言いかけた。
「どうしたの?」
メルが口ごもったリヴィに促すような声をかける。リヴィは頬を赤らめて隣に座るブライアンを見上げ、そのまま下を向いてしまった。
「何でもない」
「変なリヴィ。言いたい事があるならはっきりしなさいよね」
リヴィは、曖昧に笑った。ブライアンは可愛い妹の方を向き、彼女の反応を不思議がっているようだが、日頃の柔和な笑みを崩してはいなかった。ブライアンは、リヴィの前ではいつも笑っている印象がある。
「そういえば、リヴィ。昨日は別々に帰ったから、聞きそびれたけど、この間の単位の再テスト、どうだったの?」
そう聞かれて、リヴィは、両手をゆっくりと持ち上げ、それぞれの指先でVサインを決めた。
「100点」
「さっすが! やればできるじゃない!!」
メルはたちまち興奮の表情である。
「魔道心理学、リヴィは苦手だったんじゃなかったっけ?」
「まあね。人の心の裏読みとか、あんまりしたくないから。それに、テキスト通りに人の心が動くとは限らないし」
「そう? だけど嫌いだからって勉強しないのは、ないわよ。なんだって役に立つ知識なんだから」
メルが小言を言うと、ブライアンはなだめるように従姉妹を見た。
「まあまあ……リヴィは結局100点を取ったんだからいいじゃないか」
「ブライアン兄さんは、リヴィに甘すぎます!」
きつい表情でメルがブライアンに向かうと、彼は多少戸惑った顔を見せたが、また、照れくさそうに笑った。
リヴィの方は、ブライアンからの愛情はいつものことだったので、平然としている。ブライアンはリヴィへの溺愛を誉められたと思っているようだし、リヴィは全くこたえていない。その様子に、メルはいつものとおり溜息をつくのであった。
そんなこんなで、三人を乗せた馬車は、首都クテンティンの西側の中心地にあるクインドルガ王立学院に着いた。
王立学院は、王族、貴族と一部の優秀な庶民の通う幼稚園から大学院までの一貫校である。それぞれに編入の時期はあるが、王族、貴族は他国へ留学でもするのでない限り、幼稚園や幼等部で入学をしたら、大学まで王立学院で教育を受けるのがスタンダードであった。その中でも、抜きん出た成績を残したり、勉学を特に好むものは院まで進む。
クエンティンでは、王城に次いで広大な敷地を誇る王立学院には、様々な施設や機関の建物がひしめき合いながら建っており、それが五月の陽光の下、銀色に輝く塔の群れのように見えた。
馬車を降りて、大理石の校門から入っていくリヴィ達。
「それじゃ、俺はこっちだから。リヴィとメルは、授業頑張れよ」
19歳のブライアンは、校門前の道を右に折れていきながらそう言って、手を振ってくれた。
「はい、お兄ちゃん!」
「ブライアン兄さんも、頑張ってください」
リヴィとメルは、まだ人通りの目立たない、高等部への道を連れ立って歩いて行く。
時間はまだ7:30。
授業開始は、8:30からなので、まだ一時間ほど時間がある。
ブライアン兄妹は、いつも一時間早く来て、自習室で勉強をするのが習慣なのだ。ブライアンの方は研究室でちまちまと自分の好きな研究を積んでいるらしい。高等部一年のリヴィとメルは、一年の棟の端にある自習室に向かうと、そこで好きな席について、鞄を机の上に出した。
「リヴィ、再テストの事なんだけど」
「……まだお説教?」
「説教じゃないわよ。あんたね、ステータスageの事なんだと思ってるの」
誰もいない自習室で、リヴィとメルは隣の机で話しあい始めた。
「そりゃ、ゲーム内だもの。ステータスageは大事だろうけど、私、乙女ゲームやったことないからさ……」
「それは100回聞いたわよ。だけどね」
とメルはくどくどと言いかけて、慌ててやめた。
「そんなことしてるヒマないわ。とりあえず、前期中間テストも再テストごと終わった事だし、おさらいするわよ」
とにかくリヴィのステータス次第で、メルの未来も決まってしまうのだ。そのことについては厳重注意したいが、時間がないのにがみがみくどくど言ってる場合ではない。それに、リヴィも、反省したし能力があるから100点を取ったのだろうし。
メルは、学生鞄の中から、使い込んだ一冊のノートを取り出した。
「とりあえず、ここは”憧れのクインドルガ”っていう名作乙女ゲームの中の世界。私たちはそのゲームの中の悪役令嬢とそのおとり巻き。このままじゃ、この王立学院の高等部を卒業するのと同時に、リヴィは私たち一族郎党を引き連れて実家を破産させてギロチンエンドよ。そうならないために精一杯努力してきたし、これからも、ゲーム内で悪役令嬢として終わらないためには、全力で頑張るしかないわ。そのために必要な事はなんだってやるわよ」
メルは憧れのクインドルガについて、自力で書いた攻略ノートを開きながらそう言った。
「それだけじゃないでしょ」
リヴィはメルの言葉につけたした。
「私たち、この世界からゲームクリアで、解放されるかどうかわからないけど。せっかく転生したんだから、どこででも、夢をかなえられる人生を生きたいよね。そのために頑張ろうって話じゃなかったの」
リヴィの言葉に、メルは不敵に微笑んだ。
「その通りよ。私は小説家。悪役令嬢の小説を書いて、燦然たるデビューを飾るのが夢よ。それと、リヴィは農園カフェやりたいのよね。幸い、このクインドルガ王国でも、小説家やカフェのような商売はあるし、そりゃ私たちは貴族だから障害が多いけど、試してみる価値はある。何も転生したからって夢を捨てる必要はないもんね。頑張ろう」
……そういうことである。
どこででも夢はかなえられるかというと、そういうわけでもないのだろうが、この二人の場合は、たまたま、まだしも可能性がある方だったという事である。そうは言っても、五大公爵家グラントの血を引く貴族の娘。女性が作家だの農園だのカフェだのと、言っていい身分でもあるまいし、悩みは大きい。それでも、やってみようという根性があるのが転んでもただでは起きない二人の気質であった。
「じゃーさ、高等部に入った事だし、”憧れのクインドルガ”のゲームシステムから復習しようか?」
ノートに書いたメモの走り書きを見ながら、メルが言う。
ちなみに、ノートは現代日本語で綴られており、クインドルガ語ではない。ちなみに、クインドルガで話されている言葉は一般にエヴァ語と呼ばれ、アルファベットに近いエーフィ文字と呼ばれる31ある文字で書く。メルの攻略ノートが日本語で書かれているのは、クインドルガ人に自分たちの正体がばれないようにするための防衛だが、もしも、ノートの中身を見られたら、何を書いてあるかわからないだけに、どんな評判が立つかわかったものではなかった。そのため、メルは攻略ノートを常に持ち歩く事にしている。もしも、黙って中身を見られたり奪われたりしたら、メルは--相手から奪い返すだけではなく、その記憶を打ち消すためにどんな極悪な魔法を使うか、リヴィにも予想はつかなかった。
「いいわよ。でも、先月から高等部に入ったけど、中学の時と大して変わらないんじゃないの?」
「またそういうことを言う。ゲームは常に緊張感を持ってやってよね? 高等部は高等部で、今までとシステムが違うのよ。ていうか、本来のゲーム開始は先月の入学式からなんですけど」
「そうなの?」
「お前は人の話を聞いていないのか!」
そこでメルはメル語でまた説教をしようと思ったが、何しろ授業開始前、慌てて口を拭って、ノートをパラパラとめくり始めた。
「まず、設定から行くわよ。”憧れのクインドルガ”は、女性向けの乙女ゲーム。一応、私が買ったのはCERO15で家庭用ゲーム機バージョン。それとは別に、パソコン版でR18指定の女性向けエロゲがあるけれど、そことは設定が共通なだけでパラレル仕様の別シナリオになってるらしい。まあ一部シナリオかぶっているって話だけど、私、何しろ前世で死んだ時大学入学式だったのよね。そっちのエロゲバージョンはやってないし資料もそれほど目を通してないの。ただ、そのエロゲバージョンの方でも、原作オリヴィアとアメリアには救いがなくて、どのシナリオでもバッドエンド、よくてギロチンエンド、悪くて一族郎党引き連れて、磔獄門よりひどい状態になるらしいわ」
「ああ……」
その話は今まで何回もおさらいをしたが、何回聞いても、憂鬱な気持ちになるのは変わらない。エロゲの悪のヒロインの上に一族連れてその末路ってなんなんだ。それは是非とも回避したいところである。
「”憧れのクインドルガ”のクインドルガって訛りで、本来はクインドリガって言うらしいの。強い女王って意味よ。そういうわけで、原作オリヴィアは、王女アンジェリン、通称”アンシー”の当て馬キャラね。アンシーは色々ワケアリの娘で、いずれ、クインドルガ王国を統治する女王、もしくは国王ノアの片腕となる王妃となれるかどうかの試験を受けるために、高等部にやってくるの。卒業までに何回か試験があって、その試験で最高得点を取ると女王、そうでなければ王妃ね。エンディングの数は20個で、そのうち1個はバッドエンド。全部解けると、おまけシナリオが出てくるの。私はその最後のおまけシナリオ以外は全部見ているわ」
「なんでやらなかったんだっけ? おまけシナリオ」
「時間が足りなかったから」
メルは淡泊に答えた。
「受験勉強中に息抜きにやっていたのがクインドルガなんだけど。受験が終わったら、自分へのご褒美におまけシナリオやろうと思っていたんだよね。だけど、国立大の試験終わって、これなら余裕で合格出来るなと思ったら、なんか目の前にキイチゴ新人賞が」
「あー……」
リヴィは苦笑した。リヴィでも、その女性向けのケータイ小説サイト”キイチゴ”は知っている。どうやら、そこの新人賞が開設されて、悪役令嬢シナリオに目がないメルは飛びついたということらしい。
「そう。春休みいっぱいかけて、小説書くのとキイチゴ新人賞に応募している小説読むのにつぎ込んじゃって、入学式が終わったら、おまけシナリオやろうと、先延ばしにしちゃったの。で、新人賞には虎の子の悪役令嬢シナリオを……」
「書き上がったんだっけ?」
「いや、締め切りはGWあけだったから、まだ八割しか書き上がっていない」
メルは遠い目になりながら首を左右に振った。リヴィは、何とも言えない顔になった。国立大の文学部は余裕で合格したが、入学式に異世界転生。悪役令嬢シナリオと思ってやりこんだ憧れのクインドルガはおまけシナリオだけ食い残し。キイチゴ新人賞に飛びついたはいいが、締め切り前とは言え8割しか小説かけずダンプカーに轢かれて死亡。18歳の若い身空で転生したとはいえ、なんなんだ、このアメリア(倉橋彩芽)の人生は……・
「言わないでよね」
メルはリヴィの視線を感じて不機嫌そうにそう言った。
「私だって、なんだか、何もかも中途半端にして前世を終えちゃったと思ってるんだから。だからこそ、今回のゲーム人生では全力出し切って結果出したいっていうことよ。あんたもぼさっとしてないで、つきあってよ、菜月」
「はいはい」
菜月こと、リヴィはお手上げのポーズを取ってそう言った。リヴィも、米田菜月だった人生においては、自分が農園カフェをやりたくて東京の農学部に行きたかったのに、親の一存で地元の大学の文学部に行くという、超絶へたれな人生を歩んでいるのである。とても人の事は言えなかった。
「私も、ゲームシナリオのせいでギロチンエンドは嫌よ。そこは全力で拒否するわ」
「だよね」
メルはほっとしたような表情になった。
「じゃ、今まで通りのところをおさらいすると、王女アンシーは、先代国王のご落胤で、血筋に色々問題あるんだけど、王太子ノアの婚約者候補と目されている、正真正銘のお姫様よ。その聖女タイプのお姫様が、王太子ノアだけじゃなく、五公爵家の嫡男であるプリンス達を籠絡……じゃない、攻略しながら、ステータスをあげて、一年に2回あるテストをクリアして、ご褒美もらいながら、卒業試験を目指す。卒業試験の結果と、攻略男子達との好感度で、それぞれエンディングが決まって来るっていう感じ。ゲームシナリオのエンディングの他に、攻略男子のシナリオのエンディングがそれぞれ別にあるのよね。攻略男子は、基本的には、ノアと、公爵家の嫡男、それと、隠しキャラが3人ぐらいいるわ」
「うん、そういう話だったわよね」
リヴィは何度も頷いた。
「で、私は、先天的に淫乱だか淫奔だか、そういう設定がついているんで? グラント家の仲間の五公爵家とのつきあいは最小限にしろって言われていたから、そうしていたけれど」
「ていうかむしろ、お前、男子と話すな」
リヴィが淫乱だの淫奔だのと言われる美しいふしだらな顔をゆがめると、メルは一言ずばっと斬り捨てた。
「アンシーもだったんだけど、男子と話したり、仲良く過ごしたりすると、ゲーム内の評価システムが下がるらしいのよ。てか、私も20本以上シナリオクリアしたから知ってるけど、下がるのよ。表向きは、変わらないんだけど、ゲームエンディングに関わる評価が、内部システムで勝手に下がる仕組みになってるらしいの。で、ヒロインクラスで聖女アンシーでさえが、そういうシステムになってるのに、インランインボンのお前が、身勝手に男子と話してみろ。どんな結果が出るか、私にもわかんない」
「……そりゃわかるけど。でも、もしかしたら原作オリヴィアには、そういう評価sageシステム関係なかったんじゃないの?」
「関係なかったら、いいよ? だけど、関係あったらどうするの?」
「………………死にたくないです」
「そう、そこ」
メルは大きく頷いた。リヴィは大きくうなだれた。
読んでいただきありがとうございます。